435

過去の感染症からみる新型肺炎

大塚耕平

2.コロンブス交換

感染症は、病原微生物や病原体(細菌、ウィルス、真菌、原虫等)が人の体液等に侵入、定着、増殖し、組織を破壊して発症。伝染性のある感染症は疫病(はやり病)とも言います。

有史以前から近代まで、人の疾患の大半は感染症です。民族接触、文化交流等によって、感染症は世界に拡大してきました。

「コロンブス交換(Columbian Exchange)」は米歴史学者アルフレッド・クロスビーによって唱えられた概念。コロンブスの米大陸発見(1492年)を機に、東半球と西半球の動植物、食物、文化とともに、病原体まで混交し、「交換」が行われたことを指します。

すなわち、コレラ、インフルエンザ、マラリア、麻疹、ペスト、天然痘、結核、チフス等が欧亜大陸から米大陸にもたらされました。

新しい感染症への免疫を有しない米大陸先住民の人口は激減。17世紀初頭までにメキシコ先住民(インディオ)人口は1492年以前の3%になったそうです。もちろん、制服に伴う虐殺も影響しています。

人口減を補うため、征服者は黒人奴隷をアフリカ大陸から搬入。欧亜大陸、米大陸、アフリカ大陸を結ぶ三角貿易が成立し、世界の「コロンブス交換」は完成しました。

同様の史実を、フランスの歴史学者エマニュエル・ラデュリは「細菌による世界統一」という表現を用いて説明しています。

感染症を最初に認識したのはイスラム世界の代表的医学者イブン・スィーナー。1020年の著作「医学典範」の中に、感染症拡大防止には隔離が有効と記しています。

中世にかけてキリスト教世界でも感染症の知識が蓄積され、病原微生物を初めて目視したのは1684年、光学顕微鏡を駆使したアントニ・レーウェンフック(蘭)。

1838年に細菌を意味するラテン語「bacterium」が登場。19世紀にはパスツール(仏)、コッホ(独)、ジェンナー(英)等の細菌学者が天然痘やポリオ等のワクチンを開発。

やがて日本でも、北里柴三郎がペスト菌(1894年)、志賀潔が赤痢菌(1898年)を発見。主な細菌発見、ワクチン開発は19世紀末から20世紀初頭に集中しました。

光学顕微鏡でも視認できないウィルス(virus)発見は細菌より遅れ、1892年のイワノフスキー(露)によるタバコモザイクウィルスの発見が最初です。

有史以来の主な感染症の歴史を概観しておきます。最初に取り上げるべきはペスト。紀元前5世紀、アテネでペスト流行の記録があり、ギリシャ世界崩壊の契機となりました。

5世紀の東ローマ帝国。エジプトで発症したペストが、パレスチナ、アナトリア半島、帝都コンスタンティノープルへと広がり、人口の半分を失って帝国は機能不全に陥りました。

ペスト流行で地中海沿岸人口が急減した一方、当時のアルプス以北西欧世界は交通網が未発達な後進地域。それが幸いしてペスト流行が軽微で済み、それ以降の発展の礎になったと言われています。

14世紀、「黒死病」と呼ばれて猛威を振るったペスト。中国で大増殖していたペスト菌がモンゴル帝国によってユーラシア大陸西部から欧州に運ばれ、大災厄をもたらしました。全世界で約9000万人、欧州では全人口の3分の1に当たる約3000万人、英仏では人口の半分が死亡したと推定されています。

その後、小康状態となったものの、1855年、清朝雲南を起源とするペストの大流行。その後、コッホに師事した北里柴三郎とパスツール研究所のイェルサンがほぼ同時期にペスト菌を発見しました。

日本では、古くから疱瘡(天然痘)・麻疹(はしか)・水疱瘡(水痘)が「御役三病」と呼ばれ、恐れられてきました。21世紀に入っても麻疹の集団感染が見られ、日本は麻疹の「輸出国」と見なされています。

天然痘に対しては、古代から発疹の瘡蓋(かさぶた)を用いた人痘が行われていました。1798年、自らも人痘接種を受けた経験がある英国人医師エドワード・ジェンナーが「牛痘にかかった者は人痘にもかからない」という農婦の話を聞き、種痘を開発して8歳の少年に牛痘接種。予防接種の先駆けでしたが、一種の人体実験でもありました。

1958年からWHOが天然痘根絶計画を開始。1975年のバングラデシュ、1977年のソマリアを最後に天然痘患者は報告されておらず、1980年、WHOは天然痘根絶を宣言。

天然痘は人類が根絶した唯一の感染症であり、天然痘ウィルスは現在、米国とロシアのバイオセーフティーレベル4の施設で管理されています。

水疱瘡は筆者も4年前に罹患。大人になっての罹患は重篤ということで、8日間、東京逓信病院に入院しました。

コレラによるパンデミックは過去7回。19世紀前半のコレラ流行は都市化の進んだ時期と重なり、劣悪な都市衛生環境が被害を拡大。公衆衛生学や上下水道整備等の近代的都市工学等、新たな学術分野の発展につながりました。

日本では幕末から明治期に大流行し、累計20万人超が死亡。オランダ人の「コレラ」という発音が転訛した「コロリ(虎列刺、虎狼狸)」の呼び名が広がり、激しい症状、高い死亡率から「鉄砲」「見急」「3日コロリ」とも呼ばれました。

チフスは19世紀前半のフランス、ロシアで大流行。コレラとともに、労働運動活発化の一因になったと言われています。

日本では「労咳(ろうがい)」と言われた結核。「不治の病」「死の病」「白いペスト」とも呼ばれました。

産業革命後に「世界の工場」として繁栄した英国で大流行し、最悪期1830年頃のロンドンでは5人に1人が結核で死亡。当時の労働者は1日15時間労働でスラム街に住み、低賃金による困窮、劣悪な生活衛生環境等が事態の深刻化に拍車をかけました。

明治期、日本からの英国留学生は、結核に罹患し、死亡したり、帰国する者が少なくありませんでした。やがて、日本国内でも紡績工場の「女工哀史」に象徴される英国と同様の状況が生まれ、1935年から1950年までの15年間、日本人の死亡原因のトップでした。

ほかにも感染症は、ポリオ(急性灰白髄炎)、エボラ出血熱、エイズ(AIDS、後天性免疫不全症候群)、マラリア、ウエストナイル熱、日本脳炎等々、多岐にわたります。

紀元前412年、「医学の父」と呼ばれたヒポクラテスがインフルエンザと思われる感染症の記録を残しています。1889年に流行した疾病の病原菌分離にドイツ元軍医リヒャルト・プファイファーが成功。1892年、「インフルエンザ菌」と命名しました。

スペイン風邪は鳥インフルエンザの一種。1918年、米軍兵士の間で流行し始め、人類が遭遇した最初のインフルエンザ・パンデミックです。

感染者6億人は当時の世界人口12億人の半分、死者5000万人超。この死者数は、感染症のみならず、戦争や災害等、あらゆる災厄の中で人間を短期間で大量に死亡させた最多記録。第1次大戦の戦死者数を上回り、米国では50万人、日本では当時の人口5500万人に対して39万人が死亡しました。

米国発の感染症が「スペイン風邪」と呼ばれた理由は、当時は第1次大戦中の情報統制下にあったため、感染症の重要情報が中立国スペイン経由で発信されたからです。スペイン風邪のパンデミックは第1次大戦の終結を早めたとも言われています。

20世紀中にインフルエンザ・パンデミックは3回ありました。上述のスペイン風邪のほか、1957年のアジア風邪、1968年の香港風邪です。

アジア風邪では世界で200万人が死亡。1957年冬、中国貴州で発生。当時の中国はWHO未加盟であったため、感染情報が他国に伝わったのは流行から2ヶ月経過してからでした。日本での届出感染者は99万人、死者は判明分で7735人です。香港風邪による死亡者は世界で100万人、日本で2200人超と言われています。


 次のページ3.生物兵器


関連する記事はありません。