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大恐慌とコロナ恐慌

大塚耕平

2.自由放任主義

大恐慌の直接的契機は「暗黒の木曜日」ですが、その背景には1920年代に蓄積された経済構造の歪みが影響しています。

第1に過剰生産。第1次大戦後の復興景気の中で、自動車、ラジオ、洗濯機、冷蔵庫、化粧品等の新たな消費財や住宅が大量生産され、広告宣伝によるセールス、月賦販売(信用販売)等の新しい営業手法と相俟って、過剰消費を誘発する過剰生産状態に陥っていました。

第2に投機。企業の設備投資や生産に必要な資金は、急速に発展していた株式市場で調達されていました。株価上昇は投機を生み、資金調達を容易にし、過剰設備投資と過剰生産を誘発。投機が過剰生産を助長していました。

投機の背景には、第1次大戦後に米国に金(Gold)と英仏両国からの戦債返済資金が流入していたことが影響しています。過剰資金は銀行から証券会社、株式仲買人を経由して個人投資家や普通の国民にも貸し付けられ、株式投資ブームが起きていました。

企業同士の株の持ち合い、投資信託が急増。一躍花形職業になっていた証券営業マンが株を売りまくり、多くの国民が株式市場に参入していました。

第3に需要不足。「暗黒の木曜日」直前の数年間は、農業不況、農家の購買力低下が深刻さを増していました。第1次大戦時に食料需要が高まり、価格も上昇。機械化と相俟って米国での穀物増産が進んだ一方、戦後は独仏等の欧州諸国が高関税で自国農業を保護し、食料自給を進めていました。

そのため、1924年頃から農産物価格が下落。米国の農民は第1次大戦中に借金によって耕地拡大と機械化を進めていましたので、農産物価格下落は農家を直撃。さらに1929年は豊作貧乏となり、農民の購買力が著しく低下している中で「暗黒の木曜日」を迎えました。

以上のように、1920年代の米国経済の繁栄を支えていたのは、信用販売と過剰資金による投機。それが生み出す過剰消費と過剰生産。需給実態と関係ない経済になっていました。

1920年代後半には需給ギャップが徐々に経済に影響を与え、購買力は鈍化し、製品・商品は飽和状態。不動産価格は既に1925年にピークアウト。投資家は1929年夏にはこうした矛盾を意識するようになり、株価もピークアウト。そうした中で迎えたのが10月24日、「暗黒の木曜日」でした。

さらに「暗黒の木曜日」後の米国政府の対応が混乱を深刻化させました。第1に、上述のとおりフーバー大統領(及び政権幹部)は自由放任主義者。不況は周期的なもので景気はやがて回復すると考え、人為的対策には後ろ向き。市場原理に委ねるべきとの基本方針でした。

第2に1930年6月に成立した上述のスムート・ホーリー法により関税引き上げを実施し、保護貿易に舵を切りました。他国も追随し、世界の保護主義化が始まりました。

英国は英連邦内に特恵関税を設け、スターリング(ポンド)経済圏を構築。呼応してフランスもフラン経済圏、米国もドル経済圏を構築。主要国がブロック経済化に転じたため、世界全体の貿易が衰退し、恐慌を長期化させました。

各国は自国経済立て直しに奔走。1931年、英国マクドナルド挙国一致内閣が金本位制停止に踏み切ると、33年には米国も金本位制停止。世界の金本位制は崩壊しました。

第3にドイツへの対応。第1次大戦の敗戦国ドイツも世界恐慌の影響を受け、1931年6月、独ブリューニング首相が賠償金支払いは困難と表明。米フーバー大統領は賠償金の1年間支払い猶予を表明(フーバー・モラトリアム)。

フーバー大統領は1年(「暗黒の木曜日」からは約3年)で恐慌は終息すると考えていたようですが、事態はさらに深刻化。

1932年、日本の働きかけでドイツ債務問題を再度協議するローザンヌ(スイス)会議を開催。ドイツ債務問題は事実上棚上げされると同時に、英仏両国も自国の対米債務帳消しを企図。しかし米国は会議に出席せず、英仏の目的は果たせませんでした。

1933年のドイツの失業者は600万人(3人に1人)に増加、銀行破綻も発生。ドイツ経済の破綻はドイツに戦争債権を有する英仏経済も悪化させ、英仏から米国への債務返済にも影響が出て、米国経済も従前のようには回らなくなりました。

そのような中で、ドイツでは1933年1月、ヒトラーが首相となり、対米英仏の戦争債務(賠償金)は曖昧なまま第2次大戦に向かっていきます。

1933年6月、国際連盟主催のロンドン世界経済会議に67カ国が集まり、国際協調を協議したものの、米国ルーズベルト大統領は世界経済全体に責任を持つことを放棄。賠償問題、通貨問題で合意はまとまらず、結果的に第2次大戦につながっていきます。


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