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アラビアのロレンス

大塚 耕平

アラビアのロレンス

イスラエルとハマスが停戦。とりあえず良かったと思いますが、日本の防衛副大臣の不用意なツイートが国際的に物議を醸しました。イスラエルとパレスチナの確執の背景は極めて複雑。事実関係を深く理解しないで他国の人間がコメントすることは危険です。自国民を危険に晒す可能性もあります。イスラエル、パレスチナ、中東を理解するうえで必要な歴史的経緯を整理しておきます。お時間のある時にご一読ください。


1.アラビアのロレンス

最低限、オスマン帝国崩壊とイラン革命(イスラム革命)について理解しなければなりません。もっと遡れば、古代ローマ帝国、中世イスラム帝国の歴史等に踏み込まなくてはなりませんが、以下、ここでは近代史以降を整理してみます。

「オスマントルコ帝国」という表現は正確ではありません。1299年の建国の始祖、オスマン1世に由来して「オスマン帝国」と称することは間違いではないですが、帝国内は多宗教・多民族が共存。トルコ民族だけの国ではなかったことから、「オスマントルコ帝国」ではなく「オスマン帝国」と呼ぶのが適切でしょう。 最盛期は17世紀後半。領土は東欧南部、バルカン半島、黒海・カスピ海沿岸、アナトリア半島(西アジア)、中東、アラビア半島沿岸、北アフリカに及び、南欧を除く地中海沿岸全域がオスマン帝国でした。 それ以降、西欧諸国やロシア帝国の南下に伴い、領土は徐々に縮小。同時期、トルコ民族主義が強まり、アラブ等の他民族が反発。国内は徐々に混迷の度合いを強めていきました。 そうした中で勃発した第1次世界大戦。オスマン帝国はバルカン半島の汎スラヴ主義拡大を抑える意図もあり、バルカン半島に進出するドイツに接近。第1次世界大戦は同盟国側(ドイツ側)の一員として参戦。ここからが今日に至る深層の動きの始まりです。 大戦中に国内のアラブ人等が蜂起。これに目をつけたのが協商国側、とくに英国です。英国の工作員としてオスマン帝国に派遣されたのがトーマス・エドワーズ・ロレンス。通称「アラビアのロレンス」。 ロレンスはアラブの名門ハーシム家に接近。ハーシム家の当主はフサイン・イブン・アリ―。後のヨルダン王家の直系の祖となります。その息子がファイサル・イブン・フサイン。後のイラクとシリアの初代国王です。 ロレンスは彼らを扇動し、オスマン帝国からのアラブ独立のために活躍。その本当の目的は、オスマン帝国軍をアラブ人対応に釘付けにし、協商国側の行動を容易にするためでした。 そして、その間に行われたのが矛盾に満ちた三重外交。すなわち、英国がアラブ人に独立を約束した「フサイン・マクマホン協定(1915年)」、英仏露がアラブ地域の三分割統治を密約した「サイクス・ピコ協定(1916年)」、英国がユダヤ人に独立を約束した「バルフォア宣言(1917年)」です。

第1次世界大戦終結(1918年)後、オスマン帝国は1922年に崩壊。トルコ共和国が誕生する一方、分離された中東、アラビア半島、北アフリカは、アラブ人の期待を裏切り、西欧諸国が植民地支配または委任統治。これが、今日まで続く混乱の始まりです。 その後、1940年代にかけて中東諸国が次々と独立。しかし、中東諸国は第2次世界大戦終結(1945年)後の米ソ東西対立の力学に影響されるとともに、1948年のイスラエル独立によって反イスラエル・反シオニズムの力学に翻弄され、今日に至っています。 「シオニズム」とは、ユダヤ人が故郷パレスチナに国家を建設する運動のこと。しかし、そのパレスチナはアラブ人にとっても故郷。ここに、ユダヤ人とアラブ人の根深い対立が発生しました。

パレスチナとはシリア南部、地中海東岸一帯の地域を指します。この地は、ユダヤ教の聖典において「イスラエルの民に与えられた約束の地」と説かれていることから、ヘブライ語で「エレツ・イスラエル(イスラエルの地)」と呼ばれています。 イスラエルはアブラハムの孫ヤコブの別名。アブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信徒、わゆる「啓典の民」の始祖。最初の預言者で「信仰の父」とも呼ばれます。その孫ヤコブは古代イスラエル王の祖先。伝統的にユダヤ人の祖先と考えられています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神を信仰しています。意外に知られていませんが、ルーツは同じです。

パレスチナは長い間、イスラム国家の支配下に置かれていましたが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信徒(人種的には全てアラブ人)が共存していた地域。第1次世界大戦の頃はオスマントルコ帝国の域内でした。 19世紀末、つまりオスマントルコ帝国末期、欧米で生活していたユダヤ人(ユダヤ教徒)のパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起き、ユダヤ人のパレスチナ入植が始まります。 その中で行われたのが第1次世界大戦下での協商国側、とりわけ英国による三重外交。大戦後、パレスチナは英国の委任統治領となりました。


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