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アラビアのロレンス

大塚 耕平

アラビアのロレンス

2.パレスチナ分割決議

ユダヤ人の入植が増加するに伴い、アラブ人(イスラム教徒)との摩擦が強まり、アラブ人は英国に対してユダヤ人の入植制限を要求。英国はユダヤ人とアラブ人の板挟みとなり、両大戦の戦間期、パレスチナではユダヤ人、アラブ人、英国軍の衝突が頻発。 第2次世界終了後、ユダヤ人とアラブ人の対立が激化。英国は事態収拾を困難と判断し、委任統治を終了させる意向を表明しました。 英国は発足直後の国連にパレスチナ問題の仲裁を提訴。1947年11月、国連は同地域にユダヤ人とアラブ人の国家を建設する決議を採択(パレスチナ分割決議)。 この決議では、ユダヤ人国家は面積でパレスチナ全体の56%を占め、テルアビブ等の都市と肥沃な地域を包含。人口構成はユダヤ人55%、アラブ人45%。

一方、アラブ人国家は同43%。同地域にはユダヤ人はほとんどおらず、人口構成はユダヤ人1%、アラブ人99%。 ユダヤ教、キリスト教、ユダヤ教共通の聖地であるエルサレムやベツレヘムを含むパレスチナ中央部のわずかな地域(全体の1%)は、中立の国連管理地域とする予定でした。 ユダヤ人はこの決議を歓迎したものの、アラブ人は反発。結果的に、この決議はユダヤ人とアラブ人の対立を決定的にしてしまいました。 ユダヤ人とアラブ人の武力衝突が頻発するようになり、パレスチナは事実上の内戦状態に突入。 1948年5月14日、英国によるパレスチナ委任統治終了の日にユダヤ人はイスラエル建国(独立)を宣言。翌日には、反発する周辺アラブ諸国がパレスチナに侵攻し、第1次中東戦争(イスラエル独立戦争)が勃発しました。 第1次中東戦争におけるアラブ側の兵力は約15万人、イスラエル側は約3万人。兵力ではアラブ側優位でした。

しかし、兵士の士気はイスラエル側の方が高く、また参戦したアラブ諸国(エジプト、サウジアラビア、イラク、ヨルダン、シリア、レバノン)は相互不信から連携がうまく取れなかったようです。 戦況が次第にイスラエル優位となる中、1949年6月、双方とも国連の停戦勧告を受諾。イスラエルはパレスチナ分割決議以上の領土を確保したものの、聖地エルサレムは新市街地(西部)しか確保できす、首都はテルアビブに置くこととなりました。 アラブ側はエルサレム旧市街地(東部)を含むヨルダン川西岸地区がヨルダン領、地中海沿岸のガザ地区がエジプト領になり、アラブ人居住地は分断されました。 この結末に双方とも不満。イスラエルは独立したものの、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」を含むエルサレム旧市街地には出入できなくなった一方、アラブ側はイスラエルの建国を許し、イスラエルよりも少ない地域しか占有できませんでした。 イスラム系アラブ人(パレスチナ人)の多くが故郷を追われ、パレスチナ難民となって周辺に流出。この結末が、今日に続く対立の原型です。

パレスチナ地域の原型が固まった後の1956年、エジプトがアスワンハイダム建設を巡って英米両国と対立。エジプトは英米両国への対抗措置としてスエズ運河国有化を宣言。 スエズ運河を利用していた英仏(米ではなく仏)両国が国有化に反発。エジプトと対立していたイスラエルを煽って第2次中東戦争(スエズ動乱)を扇動。同年10月、イスラエルはシナイ半島(イスラエルとエジプトの中間地帯)に侵攻しました。 英仏も軍事介入してスエズ運河地帯に進軍。すると、エジプトを支援していたソ連のみならず、米国も英仏に反発。11月6日、各国は国連の停戦決議を受諾。

結局、英仏はエジプトによるスエズ運河国有化を追認。軍事的にはエジプトに勝利したイスラエルは米ソの圧力によって外交的には敗北。エジプトは軍事的には敗北したものの、スエズ運河国有化を果たし、アラブ諸国の盟主としての地位を確立。英国は中東での影響力を一気に失いました。


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