大塚耕平の生い立ち

愛知県木曽川町(現一宮市)出身の父と新潟県新潟市出身(祖父母は燕市)の母との間に誕生。父母は戦争世代。学徒動員の父は海軍将校時代に母と知り合ったそうです。

男ばかり四人兄弟の末っ子。父は中小企業経営者。母は女の子が欲しかったみたいですが、残念ながら最後まで男。僕のことです。

知り合いや親戚のお嬢さんを家に預かっていたので(つまり下宿)、幼少の頃の団欒の記憶は賑やか。兄たちに加え、下宿していたお嬢さんたちは姉のような存在でした。

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幼稚園

幼稚園は大久手にある名古屋市立第二幼稚園。行きは通勤途上の父の車で送られ、帰りはひとりで市バスに乗車。運転手さんや車掌さんたちは、ひとりで乗車する幼稚園児にいつも優しく気を遣ってくれていた記憶があります。

東京オリンピックが開催され、幼稚園の「通知表(成績ではなく、日頃の様子を家族に知らせるもの)」には将来の夢が書かれています。たどたどしい字で「オリンピック選手になりたい」。時代を反映していました。

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小学校

小学校は名古屋市立田代小学校。「広い名古屋の朝空晴れて・・・」という歌詞で始まる校歌は今でも歌えます。ベビーブームより少し後の世代ですが、それでもひとクラス45人、1学年8クラスの規模でした。

基本的に遊びに夢中な小学校時代。草野球、缶蹴り、ハンドテニス、かかし等の全盛期。毎日暗くなるまで遊び、楽しい記憶ばかり。林間学校は稲武、修学旅行は奈良、京都。典型的な昭和の小学校生活でした。

日泰寺の境内や名古屋大学のグラウンドでよく野球をしました。5年生から部活動で始めたバレーボール。以来、長い付き合いになります。

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中学校

自宅から30メートル。隣接する名古屋市立城山中学校に入学。田代小学校と東山小学校の児童に加え、人気の高い中学校だったために越境入学者も多く、一クラス45人、1学年14クラスのマンモス校。

「窓にけ高き東山・・・恵みもふかき覚王の・・・・」と続く校歌。覚王山の旧町名は田代町。両小学校に気を遣っている歌詞です。

バレーボール部の活動に明け暮れる毎日。ミュンヘンオリンピックで男子バレーが金メダルを獲得した男子バレー黄金時代。ユニフォームも全日本と一緒のデザインで揃えました。

城山中学校の男子バレー部は強く1学年上は全国大会出場。メンバーのひとりは今や全日本強化本部長を務める鳥羽賢二選手。僕の学年は残念ながら県大会止まりでした。

1年の時の林間学校は中津川、3年の修学旅行は伊豆、箱根。濃厚な中学生活。中学3年で妻と同じクラス。もちろん、後々結婚するとは夢にも思いませんでした。

次:高校・浪人時代

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高校・浪人

愛知県立旭丘高校に入学。私服登校が容認され、高校というより大学に近い自由な校風。先生や生徒もマイウェイタイプが多く、実に豊饒な3年間。高校時代の友人の多くと、今でも深い交流が続いています。妻も旭丘高校へ。つまり、中高同級生となりました。

「東海の山なみ はろばろ見つつ・・・」で始まる校歌。校舎4階から遠く御嶽山も見える眺望を表しての歌詞です。迷わずバレーボール部へ。やはり1学年上が強く、春高バレーは愛知県決勝戦に進出。1年生でしたが控えのセッターとしてベンチ入り。2年になってキャプテンを務めました。

中高時代にバレーボール部で鍛えられたことが、体力的にも、精神的にも、今も役立っています。一方、バレーと交友活動に熱中した結果、現役での大学受験は見事失敗。予定どおり(?)浪人生活入り。

河合塾名古屋校に入り、夏は春日井市高森台にあった別邸でひとり合宿。奮闘空しく第1志望に不合格となり、早稲田大学に入学。しかし、この早稲田がその後の人生に大きく影響しています。

次:大学時代

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大学

早稲田大学政経学部経済学科に入学。ドイツ語クラスの仲間と楽しく過ごした1・2年。シュンペーター研究の大家、伊達邦春先生のゼミナールで過ごした3・4年。卒論はケインズの一般理論とIS/LM分析。経済学が面白く感じられ、大学時代はずいぶん勉強しました。

サークルはバレーボール同好会と外交研究会。東京外国語大学女子バレー部のコーチを頼まれ、早稲田より西ヶ原(東外大)に通った日数の方が多い学生生活。日銀に就職した外交研究会の先輩との縁で、日銀に入行。

次:日銀・大学院時代

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日銀・大学院

日銀勤務は伝統ある営業局(現在の金融市場局、金融機構局、決済機構局が合体したような組織)でスタート。新潟支店、大阪支店時代の産業調査、企業調査の中で身に付いたスキルや知識は、現在の国会議員としての仕事にもたいへん役立っています。

最も長く在籍したのは再び配属された営業局。金融政策の企画・実行の現場でバブルの発生と崩壊に直面。護送船団方式と言われた日本の金融行政、金融制度、金融機関が瓦解し、混乱を極める金融界の真っ只中で仕事に没頭。日銀法改正という歴史的局面も経験し、今日の自分につながる政治や経済に対する問題意識が醸成されました。

営業局の後は、従業員組合、システム情報局、政策委員会室で仕事をする傍ら、経済理論や金融政策、政治と経済の関係に関する自分の考え方を整理したいという動機から、新設された早稲田大学大学院社会科学研究科(政策科学専攻)に在籍して研究活動。

公共選択論の大家として知られた山之内光躬先生、地方財政の専門家で英語の達人である林正寿先生の指導の下、修士論文、博士論文を執筆。2000年に同大学院の初の博士号を取得し、無事に大学院生活を終えました。

不思議な巡り合わせです。その直後、知人を通じて民主党愛知県連から2001年参議院選挙への立候補の勧誘を受け、人生が激変。悩んだ末に立候補を決意し、2000年末、約18年間勤めた日銀を退職しました。

この間、日銀バレーボール部でも活動。新人の時には中曽宏先輩(後の副総裁)を擁してインターバンク(銀行間)Bリーグで優勝。新潟支店時代は、地元の社会人チーム北越クラブでプレーしたり、支店に隣接する新潟小学校ママさんバレーチームのコーチとして活動。バレーボールとは縁が切れません。

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国会

多くの皆さんに支えられ、第19回参議院議員選挙(2001年)で当選。以来、政策中心の議員活動に専心し、第21回参議院選挙(2007年)で再選。2009年の政権交代後は、内閣府副大臣(金融、経済財政、郵政改革、規制改革、地域活性化、拉致問題等を担当)、厚生労働副大臣を務めました。

下野後の第23回参議院選挙(2013年)で3選。2017年総選挙後の混乱を収拾するために、民進党代表に就任。2018年に国民民主党を結党し、共同代表に就任。第25回参議院選挙(2019年)で4選。一貫して政策中心の議員活動に注力し、進歩と豊かさと平和を追求しています。

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研究者・大学教員

日本財政学会、地方財政学会、公共政策学会、公共選択学会等に所属。日銀時代を含め、学会発表における報告者や対論者を務めています。今後も研究者としての学会活動は続けたいと思っています。

日銀時代に早稲田大学等から招聘されて単発の講義を行ったことがありました。国会議員になって以降、東京都や愛知県の大学を中心にその機会も増え、講義を行った大学は10校以上に上ります。

2005年に新設された中央大学大学院公共政策研究科の客員教授に就任。2017年まで続け、大学院生に修士論文の指導を行ってきました。現在は、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2017年~)を兼務。

金融機関等の研修講師も務めており、次の時代を担う学生や若者に、政治・経済・歴史・科学などの過去と現在を読み解く力、時代を切り拓く思考力や情報力を育んでもらうことも、自分の重要な職責のひとつと思い、教育・啓蒙活動を続けています。

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家族

妻は中高の同級生。人生を共に歩んでくれています。日銀勤務の傍らの大学院での研究活動、日銀を退職して選挙に立候補、ゼロからスタートした議員活動、全ての局面で献身的にサポートしてくれている妻に頭が上がりません。

息子と娘にも苦労をかけています。子供が小さい頃によく出かけたスキーやキャンプは楽しい思い出。家族に心から感謝しています。

次:スキューバダイビング

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スキューバダイビング

大学2年の春、親友と出かけた小笠原諸島でスキューバダイビングに魅了され、いつか本格的にやってみたいと思うようになりました。

妻は日本航空CAだったため、新婚早々も夏休みの日程が合いません。夫を不憫に思ったのか、妻がグアムでスキューバダイビングの講習を受けるツアーをセットしてくれました。念願叶ってスキューバダイビングのライセンス(Cカード)取得。

ダイビング仲間も大勢できました。1994年、インストラクター(指導員)資格取得。以後はサラリーマンインストラクターとして活動。ダイビングショップの講習ツアーが仕事の日程に合わない企業勤めの人や日銀の後輩たちのニーズもあり、重宝されました。

国会議員になってからはほとんど潜る機会はありません。それでも子供たちには、息子が中学生、娘が小学生の時に講習してCカードを発行。海を怖がる妻にも、ようやく2016年に講習を行ってCカード発行。晴れて(?)家族全員受講生となりました。ホームスポットは伊豆大瀬崎と奄美群島の喜界島です。

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仏教

母校である田代小学校、城山中学校の学区内にある覚王山日泰寺。国会議員としての事務所も日泰寺参道前に開設。日泰寺では毎月21日に「弘法さん」と呼ばれて親しまれている縁日が開かれます。

子供の頃は意味もわからずに縁日を楽しんでいましたが、21日は弘法大師空海の月命日。地元商店街や縁日の振興に役立ちたいとの思いから、2002年から「弘法さんかわら版」という仏教コラムを書き始めました。

日泰寺や「弘法さん」の縁日の由来を調べることからスタートした仏教コラム。深みにはまり(笑)、とうとう「仏教が趣味」と公言する境地に至りました。仏教書の老舗、大法輪閣から本も上梓。仏教は興味深く、そして心の支えになっています。

毎年12月23日には日泰寺西側の専修院本堂で「弘法さんを語る会」を主宰。専修院の杉山賢純ご住職は中高時代のバレー部の1年後輩。現在は旭丘高校の校長先生です。

全国先達会、愛知県先達会などから講演に呼ばれるようになり、最近では中日文化センター仏教講座の講師を務め、新旧仏教宗派からも招聘いただくようになりました。政治や経済を考えるうえでも、仏教は示唆に富んでいます。

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